バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

ようやく読了。ジェンダーフリー(gender free)の輪郭がおぼろげに見えてきた。
この本を読めば、ジェンダーフリー論にまとわり付く左翼的な匂いの元がどこにあるのか分かるかな?と思ったが、分からなかったな。

しかし謎な本である。
バックラッシュ(backlash>ジェンダーフリーバッシング)に関する本だからてっきり女性が書いてるのかと思ったら、
1/2以上を男が書いている。しかも1/3が(主に)フェミニストとは呼ばれていない人だ(と思われる)。


まずややこしいのがジェンダーフリーという概念。説明はwikiに詳しすぎるくらいに書かれている。
この本では保守や右翼はジェンダーフリーの意味を誤ってバッシングしていると何箇所かで述べられている。

確かに「ジェンダーフリー」は攻撃されやすいターゲットでしたが、まさかバックラッシュ派の人びとが、「ジェンダーフリー」と「ジェンダー」を混同することはないであろう。「ジェンダーフリー」は和製英語ですが、「ジェンダー」は国際標準の学術用語です。そこまで彼らが非常識で、無知、無教養、そして野蛮ではあるまいと考えていたことが、間違いだったということです。
上野千鶴子 p379

...無茶言うなw
確かに、学者などの知識人が間違えれば無知、無教養ではあるかもしれない。
でも社会学の中でも一部でしか使われていない新しい用語を、知識人以外の人間が正確に扱える訳がない。
ジェンダー(gender)、ジェンダーフリージェンダー・イクォリティ(gender equality)、ジェンダーレス(genderless)
ジェンダーバイアス(gender bias)んでもってフェニミズム(feminism)の違いをどれだけの人間が答えられるのか。
そもそも存在さえ知らないという人が多いだろうに。
しかも、ジェンダーフリー論者の間でもこれらの言葉について意見が分かれるとなれば誤解を招いて当然である。
さらに、ジェンダーフリーという言葉が実質的に和製英語で、論文の誤読がなされつつ導入された背景があるという。


誤解を招いた理由はもう一つあるとみる。
ジェンダーフリー論の中で、マトモなものは評価はされるかもしれないが批判は少なくなるだろう。
マトモではないものがマトモでないが故に目立つため、バッシングの対象となる。
例えば、「男性と女性は平等に選挙権を持つべきだ」という主張があるとしよう。
かつてはこのような男女差別が存在したが、今ではバッシングされる訳がない。故に普段ジェンダーフリーに接しない人間はこの主張に触れることはまずない。
では、「男性と女性は平等に社会に出なければならない(主婦業をすべきでない)」という田嶋先生のような主張がなされるとしよう。
厳密に言えばこの主張はジェンダーレスらしいのだが*1ジェンダーフリーを自称した人の発言なら、保守層、主婦からのジェンダーフリーバッシングは必至だ。


こう考えると、混同した責任をバックラッシュ派のみに押し付けることこそ野蛮ではあるまいか。
混同の原因はバックラッシュ派にもあるにせよ、第一にジェンダーフリー論者にあるようにしか思えないのだが。
まぁジェンダーフリー論者にも問題がある辺り山口智美、萩上チキは述べているのだが。
また、同様の混同をジェンダーフリー論者もしているように思える。
どのようなバックラッシュ批判がなされているか興味深々で読んでいたが、引用されるのは8割方八木秀次の文章である。
皇位男性継承維持論において
万世一系の皇室に男系による継承が重要なのは、男系男子だけが神武天皇Y染色体を継承するため」
とかいう珍妙な説を主張したお方を保守の代表的な論客とされても困るんだけどなw
影響が最も大きかったのが八木氏だったのでかぶったのかもしれないが、特にマトモでない説が選別された印象を拭えない。


その他では、長谷川美子男女混合名簿推進について書いているが、男女混合でなければならない理由がどうも分からない。
男女別名簿になにか不都合があるからこそ男女混合にする必要が出てくるのだろうが、読んでいても

「たかが名簿……」と言うけれど、小学校から高校までの十二年間、毎日繰り返されてきた「男が先」のこの習慣が、自分の意識や行動パターンにまったく影響していないと言い切れる人が、どれだけいるだろうか。
P341 長谷川美子

といった陰謀論的な主張しか出てこない。
混合名簿を辞めろとは言うつもりはないが、何かしら明確な根拠なりデータが欲しかったところ。
今のところ別に混合名簿でも構わないが、男女別でも構わなくね?としか思えない。


とまぁこの本に関する否定的見解を述べてきたが、違和感を感じるのはこの程度であって、その他の大部分は賛同できる内容。
宮台真司鈴木謙介の師弟コンビはともかく、斉藤環、萩上チキって人はこれから密かに注目したいところ。


一番笑えるのが、ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチームが纏めた「県別事例集」のソースになった「実態調査アンケート」。
全内容は萩原チキのブログに任せるが、
1.コンドームなどの避妊具の使い方実習


といった項目の後に


(※全国各地の小学生の父母から悲鳴があがってます)


という文章が書かれていたり、設問の答えが


①ない ②ないと思われるが、正確には把握していない ③おそらくあると思う ④過去にあったが現在はない ⑤ない


と非対称だったりと。これはヒドすぎるwwww
項目に順序が付くだけでも非対称性が出るのにな。これは印象操作の批判を免れないレベルですね。


ここまで書いて、この本の内容がおろそかになってることに気づいた。
一部引用してみよう。

社会学のオーソドックスな枠組みからいうと、ジェンダーフリーは、ジェンダーレスではありません。ジェンダーレスは「社会的性別の消去」だけど、ジェンダーフリー概念によって推奨されるべきは「社会性別に関する再帰性の自覚」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、こうしろ」という直接的なメッセージは本来、出てきません。
P10 宮台真司


ジェンダーとは、生物学的に決定される性差(セックス)に対し、「社会学的に構築された性差」であるというのが、おそらく現在もっとも普及している定義だろう。この点に関して、性差は生物学的な根拠をともなっており、あらゆる性差が社会的構築物であるという主張には科学的根拠がないとする反論が提起される。しかしながら、ジェンダーと生き方という観点からすれば、これは奇妙な対立である。問題は、生物学的な根拠があろうがなかろうと、男か女かという区別が、なぜ特定の生活様式とリンクされて理解され、それ以外の可能性が排除されるかという点にあるはずだ。
P127 鈴木謙介

こういう内容を見ていると、上野千鶴子の「ジェンダーフリーではなく、男女平等を使おう」という意見には賛成しますね。
例えば参政権において男女平等と言った場合、セックスを参照するか?しないでしょう。
個人的には男女同権を使った方がいいかな、という印象もあるけど。


結局のところ、ジェンダーフリーとは、あえて誤解を招く言い方をすると「変態を認めろ!」ということになるんじゃないかと。
(これだと直接的なメッセージだが。)
例えば「男にもスカートを履く権利を!」と言ったような。
何故変態なのか。ジェンダーバイアスが存在する為に変態さんに映るわけですよ。男はスカートを履くのはおかしいという常識があるから。
日本では「女にもパンツ(ズボン)を履く権利を!」と言っても変態さんに思われないのはバイアスが今の日本では存在しないからですよ。
常識外れなものをいかに非常識でないものと認識してもらうか(まさしく再帰性の問題)、常識が絡むためジェンダーフリーは常に保守派と対決の構図になる。 
そしてこの主張は、男がパンツ(ズボン)を履くことを否定はしない。男全員がスカートを履けとは言っていない。
つまりジェンダー自体は否定しない
ジェンダーフリー論者は、まずこの点で統一した見解を出すべきじゃなかろうか。バックラッシュ派に届くようにね。
俺はスカート履くような変態にはなりたくない、というような人からのバッシングは少なくとも無くなるだろうに。


この本ではもっとマトモな表現、多様性の主張と多様性フォビア(phobia=恐怖症)からの抵抗、
そして常識の線引きを誰がどう引くか、という言い方をしとりますが。

*1:そもそもwikiでgenderlessを調べたら、Androgynyに転送されるのだがコレ本当に一般的な用語なのか?