「アダルトゲームで心は破壊され、人間性を失う」…エロゲー規制、衆議院に

この問題は何度も言い続ける必要があるのだろうな。全くもってげんなりする。
以前5/22にこの問題を取り扱った
google円より子を検索するとココが何故か上位にヒットし、アクセス数がやたらと増えて困ったのも記憶に新しい。
さらに困ったことに、また順位が上がりつつある。
それはともかく、前回は時間の関係上一番大切なことは本を紹介することで誤魔化したが、今度は書いておく必要があるだろう。


いわゆる児童ポルノの問題は、被写体が確実に性犯罪の被害者だという一点であり、
直接の被害者が存在しない二次元の児童ポルノは、
性犯罪発生率との明確な関連性が科学的に証明されない限り規制すべきでないという事を述べたつもりだ。
ただ、この嘆願書の最大の問題点はここではない。

アダルトアニメゲーム・雑誌は「幼い少女達を危険にさらす社会を作り出していることは明らかで、表現の自由などという以前の問題」と指摘し、製造・販売について罰則を伴った法律の制定を求めている。

前回参議院に嘆願書が提出された際、念のため会期中提出された嘆願書全部に目を通してみた。
個人的に異論はあるにせよ、議論する価値はあるものばかりだったし、おかしな嘆願書はこれ以外にはなかった。
この嘆願書も単にエロゲに対する規制の話なら、どうぞ議論なさってくださいで済む話だ。
異常なのは表現の自由という、憲法第21条によって保障されている権利を脅かす、表現の自由などという以前の問題という箇所である。


正直「表現の自由以前の問題」というのが理解しかねるので想像の域を脱しないが、これが何を意味するか2パターンに分けて考えてみた。


1) 表現の自由などという理屈以前に、感覚的に分かる問題
2) 表現の自由よりエロゲー規制が優先される


感覚的に分かるのが1)だ。
個人的にロリペドは受け付けないし、特に女性が嫌悪感を抱くのも当然だろう。
幼い少女たちを危険にさらす社会を作り出していることが明らかと、その根拠が提示されずにいるのも感覚的に分かるからだろう。
では、感覚的に分かるからと言って理屈抜きで規制して良いものなのだろうか?
もし、アダルトアニメゲーム・雑誌が「幼い少女たちを危険から遠ざけてる社会を作り出してる」と信じて疑わない人間がいたとすれば、*1どちらが正しいかをどうやって判別するのか。


「我々の確信の強さは、その確信の正しさの保証にはなりえない」
論破するにはこの一言で十分だろう。
「神はさいころ遊びをしない」との確信が弱かったために、アインシュタイン量子力学の論争に敗れた訳ではない。
エロゲ規制が正当であると証明されたければ、「表現の自由などという理屈以前の問題」などという、表現の自由を蔑ろにした屁理屈は通用しない。

「なんぴとも最終的発言権を持たない。」ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それが批判の前にさらけ出され、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える限りにおいてのみである。
「なんぴとも個人的権威をもたない。」ある命題が知識として確立されたと主張しうるのは、それを検証するために用いた方法が、それを行なった人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったかとは一切無関係に、同じ結果を生み出す場合にのみ限られる。
ジョナサン・ローチ『表現の自由を脅すもの』p78,79

すなわち、エロゲ規制は表現の自由以前の問題ではなく、正当化されるためには根拠を示す必要がある。
その後批判に耐えうると検証されて初めて正当化される。

表現の自由を脅すもの (角川選書)

表現の自由を脅すもの (角川選書)


もう一つあるとすれば2)だ。
表現の自由憲法21条で保障されている。
エロゲの規制がこれ以前の問題ならば、我々は21条より前にエロゲを規制する条項を憲法に盛り込むべきなのだろうか
まさか「以前」という表現はそういう事を意味している訳ではないだろう。
言い換えれば、「公序良俗表現の自由より優先される」ということにでもなるか。

かつては、わいせつ、名誉毀損、犯罪の煽動などの表現は、刑法によって規制されており、そもそも社会的に許されないものとして、憲法に保障される表現の自由の範囲に属さないと考えられてきた。このように、表現には、そもそも、表現の自由の保障を受ける種類のものと本来的に表現の自由の保障を受けない種類のものがあるとする考え方は「二段階(two-tier)説」と呼ばれている。
『ケースブック憲法 第2版』 p91

ケースブック憲法 第2版 (弘文堂ケースブックシリーズ)

ケースブック憲法 第2版 (弘文堂ケースブックシリーズ)

この考え方は危険である。
何故なら、民主主義は表現の自由が担保されてはじめて機能するからである。
わいせつ、名誉毀損、犯罪の煽動も表現であることには変わりない。
わいせつな表現が真理をもたらす場合もありうるし、たとえ虚偽でも真理を一層確固たるものとする材料になる。

なぜ表現の自由は特に手厚く保障されるべきなのだろうか。表現の自由の「優先的地位」を正当化する議論としていくつかの代表的な理論が存在する。
 第1の議論は、民主的な政治過程の維持である。政府の政策、それに関する情報や意見を知ることで、われわれは初めてよりよく政治について判断することが可能であり、表現の自由がなければ民主的な政治過程は成り立たない。その意味で表現の自由は民主的な政治過程の不可欠な構成要素である
(中略)


 第3の議論は、表現の自由が思想の自由な競争を通じて真理の発見をもたらすとする議論である。表明される意見が真理である場合、表現の自由を規制することは真理の発見を妨げるし、また表明される意見が虚偽であっても、真理は虚偽と対決することによってより一層確固たるものとなる。
同書 p87,89

公序良俗表現の自由より優先される場合、民主的な政治過程が成り立たなくなる。
例えばガリレオの地動説は、当時の公序良俗であった聖書に反するという理由で異端裁判に掛けられた。
この場合、我々はどのようにして表現の自由を規制するべきなのか。

「ある人は他の人よりも賢い。だから……より賢い人が尺度である」
プラトン『テアイテトス』 179b

公序良俗を一番よく知っている人間が特権を持ち、異端裁判を行なうことになる。
つまり統制国家の成立である。
こうならない為には、たとえわいせつ、名誉毀損、犯罪の煽動であろうと、これらを表現の自由の一部として認める必要がある。


かと言って、わいせつ、名誉毀損、犯罪の煽動を野放しにする訳にはいかない。

しかしながら、最近では、わいせつ、名誉毀損、犯罪の煽動などの表現も、憲法で保障される表現の自由に含まれると解したうえで、表現行為の中に高い価値を有する表現と低い価値しかもたない表現があると考えて、表現の自由の規制が問題になる場合に、前者と後者とでは適用される違憲審査規準の厳格さを異なったものとして考えるべきだとする、より柔軟なアプローチが提唱されている。
(中略)


わいせつや名誉毀損、犯罪の煽動などの表現については、国家によってある程度の規制を受けることを前提にして、規制されるべき行為類型を厳格に定義づけることによって、最大限保護の及ぶ表現の範囲を確定していこうとする範疇化アプローチが広く支持されている。
同書 p91,92

規制を正当化する利益と、表現の自由を損なう不利益との間でどちらがより重要かが量られ、表現の自由は一部規制される。
落とし所はここしかない。
故に結論は1)と同じである。
すなわちエロゲ規制は表現の自由以前の問題ではなく、正当化されるためには根拠を示す必要がある。


最後に確認して欲しい。
例え表現の自由を亡きものにしようとする意見でも、表現であることには変わらない。
彼らのブログ等を炎上させたりして意見を封じる行為は、彼らと同じく表現の自由を亡きものにしようとする行為であることを忘れてはならない。

科学の−−自由な社会生活の−−基本原理は、我々はお互いを殺しあうのではなくて、お互いの仮説を殺しあうということである
提言が罰せられるのであって、提言の提唱者が罰せられるのではない。確かに、我々は最善の努力をしても、この原則通りに生きることが往々にしてできない。それは仕方がないことである。しかし、要は思想と思想家とを区別するということである。
表現の自由を脅すもの』 p236

*1:実際にこう「主張」する人は存在する