社会をつくる自由 竹井隆人

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

一応、共同体主義者を自認する身ではあるものの、共同体主義に関する知識が乏しいのを何とかしないとなぁと思ってる訳ですが、
宮台氏以外の本が中々見つからないんですね。宮台氏の本が悪いという意味ではないんですが、あまりにも偏るのもアレかなぁと。
で、久々に目に留まったのがこの本。
反コミュニティだけどもそういう視点からみた本も読んでおいたほうがいいと思ったのだが...

「コミュニティ重視」を叫ぶ者は、この「社会のをつくる自由」を踏み潰すことに、いささかも頓着せぬほど悪者であるか、あるいは、それに気づかぬほど愚者であるかのどちらかに違いあるまい。
p7-8

はしがきを読んだ段階で本を捨てかけたぜ。


どうも共同体主義者に対して偏見がおありのようで。
というかコミュニティが持つ排除の論理同調圧力にやたらと敏感で、包摂の論理などのポジティブ(包摂はポジティブとは限らないが)な面は一切述べずにネガティブな面だけ語ってるに過ぎなかった。
この人単にどこかでハミゴになったうらみつらみだけで書いてるんじゃないのか?


当然ながら、じゃぁコミュニティに代わるものって何なの?という疑問が沸く。

私は社会構成原理としての「仲良し」を拝し、その代わりに「社会をつくる自由」を奉じることで、直接的デモクラシーを介して同一社会内の他者が自らと異なることをわきまえつつ、社会ルールなどの創設、維持を通して全成員と架橋すること」を主張してきた。
p173

コミュニティの問題点を自由(リベラリズム)で補う。デモクラシーを介してとは言ってるが結局コミュニティじゃねーかw
反論は下の本の引用で十分だろう。

ニッポン問題―M2:2 (朝日文庫)

ニッポン問題―M2:2 (朝日文庫)

 そもそもリベラリズムコミュニタリアニズムは本当に対立しているのか、というところから考え直してもらわなくてはなりません。一般にリベラルは、法や公共体(政府や地方公共団体)の価値中立性を説きます。特定の共同体や個人における信念が社会全体を覆ってしまわないようにすることが、自由や平等を保障するという考え方です。これに対してコミュニタリアンは、アイデンティティの寄る辺としての共同体の価値の生成、継承、発展に止目します。両者は本来、レヴェルの異なる主張なのです。リベラリズムは共同体的価値の存在を前提としているし、コミュニタリアニズムは法や公共体の仲裁的、裁定的な機能を必ずしも否定しません。
 もちろんリベラルといってもいろいろ、コミュニタリアンといってもいろいろですから一概にはいえませんが、少なくともM2の立場は、リベラリズムコミュニタリアニズムは両立可能であり、相補的であり、共闘しなければならないというものです。
 なお、リベラリズムコミュニタリアニズムの両立性、相補性はもはやM2の創見とはいえず、リベラル対コミュニタリアン論争を経た英米では、通説となりつつあります。
 コミュニタリアニズムの正確な紹介が著しく遅れていた日本でも、ようやく研究者レヴェルでの理解は進み、経済思想史の泰斗、塩野谷祐一氏によって”公認”されるところとなりました。
 詳しくは、塩野谷氏の著作『経済と論理−福祉国家の哲学』(東京大学出版会)を参照してください。
p7-8


まえがきで宮崎哲弥氏が書いておられるように、「リベラリズムコミュニタリアニズムが対立する」という通念を信じていないことが挙げられます。それを信じることは、宮崎氏も言及されているように、実は学説史的な無教養にすぎません。
 ただ、つけ加えるなら、リベラリズムとは、立場を入れ替えても耐えられるかどうかを吟味する「公正原則」に固執する立場で、コミュニタリアニズムとは、自由に振舞った帰結が自由であるための共同体的前提を壊すという逆説に敏感たろうとする立場です。双方とも単に自由の至高性を強調するリバタリアニズムの「頭の悪さ」を馬鹿にし、人々が「自由」であるための前提に固執する点で共通しています。またそれゆえに、両者は一人の人間の立場として両立しうるものでもあります。
p281-282

結局 宮崎/宮台コンビに戻る訳ですがねw
この方向で固まっていいのかしら、という不安からこの本読んだのに、結局帰ってきてしまった。


コミュニタリアンといってもいろいろだから中には悪者や愚者もいるでしょうが、
共同体の問題点(特に癒着)を無視した共同体主義なんて何の意味もないですわ。
それをどう克服していくかというのもまた共同体主義の重要なテーマですし。
ゲーテット・コミュニティ批判に対する批判など、悪くない見識もあるだけにこの本は勿体無いなぁと思いますね。