ネットいじめ 荻上チキ

ネットいじめ (PHP新書)

ネットいじめ (PHP新書)

以前『バックラッシュ!』紹介した時に、この人は注目したいと書いた。
間違ってなかったな。素晴らしいわ。


所謂「学校裏サイト」に関する本。
子供にケータイ持たせるのはいかんといった論調が最近見られるが、そういった見方をしている人にはぜひ見てもらいたい。
学校にケータイ持っていくのを禁止するという話とはまた別ですよあしからず。
ケータイで学力落ちるという話もあるが、ハマってる人間のケータイ取り上げてもゲームするかTV見るかに変わるだけだと思うんですね。
勉強した上で自由時間をケータイに使っても別に構わない訳で。
この辺りは調査をしてもらわないと分からないが。
報道ではいじめの温床だとか、さんざん叩かれている(た)「学校裏サイト」だが、基本的な実態はいかにほのぼのとしているか読めばすぐ分かるだろう。


内容については↓


第1章 つくられた「学校裏サイト」不安 はどのように報道されているかに関して。

p45-46
学校裏サイト」の例に象徴されるように、子どもとインターネットの関係については、コンテンツだけが問題となっているのではない。フィルタリングの議論の対象には、「有害コンテンツ」だけでなく、掲示板や日記サイトなどのコミュニケーションサービスが含まれている。「学校裏サイト」といえば「ネットいじめの温床」であり、プロフサイトといえば「個人情報流出の危険性」であり、SNSといえば「援助交際や性犯罪の入り口」であるという具合に、ある種の「語り方」が決まってしまってる。
(中略)
「子ども」をインターネット世界はどのように受け入れていくのか、メディアとコミュニケーションの未来をどのようにとらえていくのかといったテーマについて考えていくために、「学校裏サイト」やネットいじめについて考えることが、非常に重要な意味をもっていることは間違いない。
しかし、現在その議論を支えているのが不安言説であり、それをさらに下支えしている「学校裏サイト」などの事例紹介が、きわめて偏っていることは問題だ。実態の観察がていねいに行われず、デマなどに基づいた分析や提案などを施しても、結局は「都合のいい攻撃対象」を見つけて排除しようとする「害虫探し」に陥ってしまい、具体的な解決につながらないということは、これまでの「新しいメディア叩き」の歴史を見れば明らかだ。

メディアに限らないが、どうしても新しいものにはこういう言説が付きまとう。
2chもさんざん叩かれたではないか。確かに問題もあったが大多数の人間には関係のない事だったでしょうに。
本田透先生の言葉を借りれば、新しいものはまず「無視」され、それが難しくなると「排除」が働き、それも無理になると「包摂」へと向かう。
オタもはじめは無視され、やがてバッシングを受け、今は電車男のような包摂の方向に向きかけてるではないか。
以前も書いたが、野球でさえ早慶戦で乱闘が起きるのを受けて「若者を徒に暴力的にしている」と新聞に書かれていたし。


第2章 学校勝手サイトの真実では、まず呼称の変更を提示する。

p48-49
「裏サイト」という表現には、「学校の公式サイトではない」という意味ではなく、「闇サイト」などのように違法なサイトあるいは否定的な使い道に使われるサイトというイメージが付随しており、そのイメージがつきまとったまま議論が進んでしまいがちなため、別の名前を用いることが適切だと考えているためだ。
本書では以後、引用などの場合を除き、「学校」とそれに付随するテーマについて語り合う、関係者どうしが利用する非公式サイトのことを学校勝手サイトと表記することにする。これはケータイ業界において、公式サイトとは別につくられるサイトのことを「勝手サイト」と呼ぶことから取り、そのように名づけた。
この表記は多くの示唆を与えてくれる。インタビューに応じてくれた学生の数人は、学校勝手サイトが誹謗中傷だらけになったことを指して「サイトが裏化した」「スレが裏化した」などと表現していた。その言葉が表すように、学校化ってサイトの全てが否定的に用いられてるわけではなく、それ自体が問題であるかのように語ることは誤りである。学校勝手サイトと名づけることによって、学校勝手サイトの特徴と「学校勝手サイトの裏化」を区別して論じることが可能となり、「いかにして"裏化"を回避するか」といった具体的な議論も可能になる。

その後、具体的な統計、掲示板の形式について述べ、裏化しにくいサイトの傾向を挙げ、最後に「学校裏サイト」批判の批判をしている。
最後の批判は本来1章に入れるべき内容だが、サイトの実態を説明してかららという意図なのだろうか。


第3章 見えるようになった陰口では、ネットにおける陰口の傾向を4分割して分析し、ネットでのいじめはそれ自体が問題なのではなく、学校の人間関係の問題がネットに表れているだけだと説明する。
この認識は大切で、ネットから隔離すれば全て問題が解決するかのような論調は慎むべき。
単にネット上のいじめがなくなるだけで、これではいじめは解決しない。


第4章 ネットいじめの時代と終わりなきキャラ戦争では、現在のキャラ化した交友関係(野ブタ。など)の説明や、コミュニケーションの網状化について説明している。
あらゆるコミュニケーションには「地形効果」があるとして、例にスパロボを出してるのにはワロタがw
絶望放送リスナーがロフトプラスワン野音にアウェー感を抱くとかそういう意味でね。
個人的には網状化というよりレイヤー化というのが分かりやすいかなぁと思ってるのだが。
本の内容からは逸れるが、メモ代わりに書いておく。


かつては、共同体と言えばムラ社会。その中で家族、血縁という共同体があった。言ってみれば単一レイヤーの時代。
現在は家庭(これすらない人もいる)と学校または会社(これすらない人もいる)がベースにあり、さらに地域だったり、宗教や団体だったり、趣味の世界での共同体がある人がいる。血縁も辛うじて残っている。そして趣味の世界の共同体は複数あることも稀ではない。
家庭と血縁はほぼ固定だが、学校や会社、地域、宗教、団体は流動性が低いが変換可能。
趣味の世界は自由自在。こういった複数の共同体の上で成り立つ社会の見方として「レイヤー化された社会」というのを提案したい。
...誰か既に言ってるか、既に言ってる言葉の言い換えかもしれんがな。実際網状化という表現に近いし。


ただ、これはflash作ってる段階で(6年ほど前)思いついたことなので、一応オリジナルだという事だけは表明しておく。


共同体が複数あることの意義は、まず単一レイヤーでは束縛が厳しいこと。自由が制限されること。
次に、共同体の束縛から逃れたとしても、逆に自由が制限されること。
自由でありすぎることは時に不自由であるし、人間は社会性抜きで生活することは難しい。
ゆえに束縛が気になれば別の共同体に移住することで自由を確保する、というのはいいアイデアだと思うのだが。
共同体にはヒエラルキーが付き物である。トップの人もいればボトムな人も存在する。
共同体が複数あれば、ある共同体でボトムな人でも別の共同体ではトップになる可能性がある。
嫌な言い方をすれば生きがいを見出しやすくなるw
本田透先生のヒエラルキー論に対する一つの提案としてもいけるんじゃないかなぁと。
まぁ裕福だとかモテるだとかのヒエラルキー下位にいる人間が現実逃避しているという見方もできるが。
ネトゲーだったら別のゲームや鯖に移行するといった風に割りとスムーズなレイヤー変換ができるんだがな。


第5章 ウェブ・コミュニケーションの未来はどうネットと付き合っていくかの提言。
ゾーンニングやフィルタリングの意義などを扱っている。

p265
インターネットが「みんなのもの」になった現在*1サイバースペースに対して「空気を共有しない者をどう受け入れるのか」「未成熟な者をどう受け入れるのか」という問いが投げかけられている。それは、ネット初心者をどのように啓蒙していくかという問いでもあり、情報社会が多様な自由をどこまで許容することができるかという問いでもある。また、本書の文脈に引きつければ、学校勝手サイトなどに見られる「キャラ戦争」が、ネットいじめなどのかたちで「弱者」を過剰に生みつづけないよう、どこまでケアを行えるかという問いでもある。その問いに答えるための準備は始まったばかりだが、デマでもなく説教でもなく居直りでもなく、適切な理解をしたうえでの対応が求められている。

まさにその通り。
学校裏サイトつっても2chの会社スレやmixiのコミュニティと何ら変わらないのだから、まずネット環境に浴している人間だけでもこういった認識を持つことが大切だろう。

*1:2chで言うところの「リア厨」「半年ROMれ」と言われるような人でも参加するようなご時勢という意味