経済学という教養 稲葉振一郎

経済学という教養

経済学という教養

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

まー面白くないとは言えないが、今欲してるリフレ派の本という訳ではない分期待はずれ。
リフレ派に肩入れしてるのは確かだが、一応客観的に見ようとは努力している。
著者がポストモダンから労働問題を経てリフレ派に転向した経緯を反映したような構成で、
ポストモダンマルクス批判のイントロから入り、格差に関する問題、新古典派ケインズ派の説明、80年代までの日本の経済学史へと続く。
そしてマルクス・左翼批判を3章扱って最後に公共経済学で〆という風になっている。
ポストモダニズムに被(かぶ)れた人がメインの対象なので、正直左翼批判はまぁ読まなくてもいいかなぁと。
数字を使わずに経済学を説明してるので数学が苦手な人でも読めるという意味ではいいのだが、
基礎を学びたかったら他にもっと良い本がありそうな感じ。なのでお勧めはし辛い。
引用したいなぁと思うのは下の表くらいか。


2つの「流動性選好」説
 不況の原因不況の対策
古典的ミクロ経済学(ワルラシアン)市場の不完全性(長短区別なし)市場の効率化(長短区別なし)
「賃金・価格硬直性」説(ニューケインジアンI)市場の不完全性(長短区別なし)財政金融政策(短期) 市場の効率化(長期)
流動性選好」説α(ニューケインジアンII)有効需要不足(短期) 革新不足(長期)財政金融政策(短期) 新産業創出(長期)
流動性選好」説β(ニューケインジアンIII)有効需要不足(長短区別なし)財政金融政策(長短区別なし)

p70-71第一の、古典的ミクロ経済学の立場は、スミス=ワルラス的ヴィジョン*1固執してシュンペーター的洞察の価値を否定するものではない。ただ、シュンペーター的な意味での革新(イノベーション)という契機の導入が、スミス=ワルラス的な世界を変質させてしまうわけではない、と考えるのだ。新しい商品も、新しい市場も、既存の市場ネットワークのスムーズな動きを妨げることなく、あっさりとその中に取り込まれていく。
(しかし逆にこのような革新の存在が市場のスムーズな作動を妨げ、市場経済の有様を変える、という考え方もありうる。カール・マルクス、そしてひょっとしたらシュンペーターの考え方は、このようなものであったかもしれない。)


第二の、「価格硬直性」説、あるいは「ニューケインジアンI」はスミス=ワルラス的な意味での市場の調整能力を全面的には信用していないが、しかし半分だけは信用している。十分な時間をかければ、市場は完全雇用均衡に到達するのだ。


これに対して第三の「ニューケインジアンII」、「流動性選好」説(α)バージョンは面白い立場である。一見これは、「ニューケインジアンI」ほどにはスミス=ワルラス的な市場の調整能力を信用していないように見える。しかしじつは、そうとも言えない。この立場は「I」とは異なり、市場についてのシュンペーター的視角を取り入れているが、これがむしろ古典的な立場への回帰をもたらしている。つまり、短期的な取引の調整機構としての市場は十分に信頼されている。そして有効需要不足は価格メカニズムによっては解消できないが、新商品・新産業創出によって解決されうるのである。その意味で、不況は長期的には、市場の自己調整能力によってこそ克服されるというわけである。


しかし第四の「ニューケインジアンIII」、「流動性選好」説(β)バージョンでは、そのような長期的・動学的なレベルでの市場への信頼さえも崩れているのである。ここには先にふれたマルクス的ヴィジョン、イノヴェーションが市場を不安定にする、という洞察が潜んでいるのかもしれない。

とりあえずこの分類がある程度正しいという前提でこれから話を考えてみるか。
現在の不況が有効需要不足だという認識は恐らく間違ってないだろう。
ならば対策は金融政策か新産業創出または両方という事になるだろう。意見が分かれるのは恐らくここから。
金融政策が有効でないという批判は、インフレ下で金融政策は有効でもゼロ金利、またはデフレ下では効果がないという説
(ひもは引っぱることはできる。しかしそれは押すことはできない。)
新産業創出(公共投資)が無意味だという批判はほぼないが、あまり効果が無いという批判がある。
1単位投資した場合、効果が1.2程度だという認識は恐らく正しいだろう。これをあまり効果がないと見るか、それでもそれ以外には方法が無いと見るか。
バブル後の所謂「失われた10年」をどう検証しているかでどの説がまだマシかというのを見極めてみたい。

*1:貨幣ベール説。貨幣はそれ自体に価値はなく、媒体にすぎないという考え