脳内恋愛のすすめ 本田透

脳内恋愛のすすめ

脳内恋愛のすすめ

正直、面白さにおいては『喪男の哲学史』に劣る。
重厚な哲学の内容を構造が同じだからという理由で強引にアキバ系と同一視するのが面白かった原因だと思うが、
この本はあまり強引さがない。かと言って説得力があるかというと...w
まぁ納得力はあるのだが。


現代は「恋愛セックス資本主義」だといって批判する。(どっちかってぇと自由主義だと思うが)
そして、『トリスタンとイゾルデ』『ロミオとジュリエット』『若きウェルテルの悩み』などを例にあげ、
本来恋愛とは物語であり、これを現実に投影したのがそもそも間違いだと述べる。
ユニークなのは、恋愛至上主義自体は否定していない所か。


ただし、Ⅲ実践篇 脳内で物語を紡ぎ自らを癒す の章は一読の価値ありか。
著者の半生が綴られており、涙なしには読めない(?)
本来ならこういった人に対する癒しは宗教が担わなければならないと思うのだが、母親がカルトに入ったという環境なら無理だわなぁ。

僕が生きてきた現実には、僕が真剣に愛するに値する女性は一人もいなかったのだ。そして僕はもう人間の女性の前で、「お道化ダンス」を踊るつもりはまったくなかった。だから二○代の僕は「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野監督が作品とファンとキャラクターをいきなり放り出していわゆる「現実へ帰れ」式のオタク批判をはじめたことにずっと激怒したのだった。僕はしかたなく、自分でエヴァンゲリオンの同人小説を書いて物語とキャラクターを補完しなければならなくなった。現実へ帰れといわれても、僕の現実は、焼け野原となった故郷、実家が倒壊して*1離散した名ばかりの家族、失業、貧困、真っ暗な未来だった。どこに帰る場所などあるというのか。彼は、そのような人間が、「物語」なしには生きられないという現実を見ていなかったのか、マスメディアにちやほやされて見えなくなっていたのか、あるいは「エヴァ」に生きる支えを求めようとする人々の重圧に耐え切れなくなって投げ出したのか、本当は実写監督をやりたかったのにしぶしぶアニメ監督をやっていただけだったのか。いずれにしても作家としてもっとも重要な時期である二○代を、僕は他人の作品の脳内補完などという無駄な作業に浪費してしまった。「物語作家による物語への不信の表明」「物語作家が現実回帰を説く」という事態によって、ごく一部の(物語なしには生きられない)人間は大ダメージを受けたのだ。もちろん、大多数のアニメファンは、そのようなことで傷ついたりはしなかった。普通に批判を無視してアニメファンであり続けたのだった。しかし僕は現実にあまりにも追い詰められすぎていた。
P199-200

まーウリはエヴァ見てないので(除く23話)なんとも言えないのだが、上記のかんなぎの一件が、単にキモオタの暴走で片付けられない理由をここに見出せるのではないか。